300年前の、「出雲神社」絵図
■300年前の、竹原絵図(春風館蔵)
「出雲神社」は右下に、ひっそりと描かれています。(川向こうの神社対面は現在、道の駅)
※旧「竹原港」絵図中央下。
塩・米・酒の積出港でした。
(日の丸写真館前から、川下あたり)
■1650年「製塩業開始」
竹原で塩造りが始まりました。
(出雲神社建立の、50年前)
広島・浅野藩の分家である赤穂・浅野藩※から技術者を招き、竹原に最初の塩田が作られ製塩業が始まりました。
その後350年もの間、竹原は製塩業で栄えます。そしてその莫大な富を背景に地方都市では稀な、洗練された「町人文化」が花開く事になります。
※この赤穂・浅野藩は50年後、忠臣蔵でおなじみの、江戸城「松の廊下」での刃傷沙汰(1701年)を起こし、残念ながらお取潰しになります。
■製塩業の流れ
① 江戸時代・前期(1650年)
<製塩業開始>
播州赤穂浅野藩からの技術移転で、製塩業が始まる
■出雲神社建立(1706年)
② 江戸時代・中期
江戸や、北前船で北国を始め日本全国に「竹原の塩」が販売される
又、瀬戸内海沿岸の各地で製塩業が始まり値崩れも起きるようになる。
③ 江戸時代・後期
塩販売・酒販売や廻船業などで、莫大な富が竹原にもたらされ、現在の「町並み保存地区」を中心に発展する
④ 昭和(1960年)
残念ながら<製塩業廃止>
画期的な物流革命を起こした北前船
<1706年・出雲神社建立>
出雲大社より勧請※された出雲神社が、塩田の守護神として建立されます。
(※かんじょう=神の分霊を請じ迎える事)
明治12年の神社明細帳に、宝永3年勧請との記録があります。
■祭神
大国主命(おおくにぬしの みこと)
■いわれ
塩田開発繁盛・無病息災等を祈願し、浜主(塩業者)が勧進。
又、地域住民が塩業振興・疫病防止など生活安定祈願神として勧進。
建立以降、塩田の浜主(はまぬし:経営者)や浜子(はまこ:労働者)の心の拠り所として、守護神として、長い間祀られる事になります。
過酷な労働に耐えかねた浜子の、スト集合場所になった事もあったようです。
※最盛期には、竹原を含む瀬戸内海産(10国)の塩の生産高は、全国の8割以上を占めたそうです。
■詳しく見る(広島県竹原市における製塩業衰退の歴史)
■最先端の、情報収集能力
北前船の寄港地だった事が、竹原を大きく変えて行きます。(当時、米の積出港)
塩を全国に販売して行くという事は、国内情勢(相場)に精通する必要があったのです。
その情報を得る為、天下の台所である大阪に店子を修業に出し、文化的な交流(茶道・華道等)を積極的に展開し、あらゆる情報を収集し、竹原に持ち帰りました。(現在の接待ゴルフや、アンテナショップ?)
これにより経済動向だけでなく、最先端の文化や学問・都会的生活センスが竹原に流入し、粋な「町人文化」が芽吹いていきましす。(安芸の小京都の始まりです)
そして莫大な富を背景に竹原の商人たちは、次第に学問や文化に傾倒していくようになります。
その結果、京を模した町並建築・生活様式や、手厚い学問への支援を行い、豊な感性と文化溢れる町になって行きました。
■酒造業
竹原の繁栄により、豊富で良質な地下水を活かした酒造業も発展しました。
最盛期には30軒を超える酒蔵があったそうで、NHK朝ドラ「マッサン」で登場した竹鶴酒造もその一つです。
現存するのは3社
■竹鶴酒造(1733年~)
■藤井酒造(1863~)
■中尾醸造(1871~)
■竹鶴正孝
日本のウヰスキーの父とされている、ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝は、ここ竹原で生まれ育ちました。
彼の感性と発想力も、竹原の豊な環境が育てたのかも知れませんね。
■竹原港
竹原の繁栄を支えた 、旧「 竹原港」跡
■塩・米・酒の積出港でした。
現存する<常夜灯と、雁木>
日の丸写真館(住吉神社)の前に、ひっそりと現存しています。
昔は、この辺りが賑わいの中心でした。
■1960年「製塩業廃止」
しかし350年間続いた製塩業は、昭和35年(1960年)に廃止されました。
江戸中期には国内競合も激しくなり、さらに明治以降(特に戦後)は外国からの安い塩が大量に輸入されるようになると、製塩業が成り立たなくなったのです。
■竹原に、富と文化をもたらした製塩業の終焉です。
これにより、300年もの間「出雲神社は塩田の守護神」として塩田に関わる人々の見守ってきましたが、ここでその役割を終える事になりました。
■現在は
地区住民(本川自治会管理)の守護神となり、家内安全・縁結びの神様として、多くの方々の参拝で賑っています。
出雲神社例大祭は、毎年10月の第1日曜日に行われます。
皆さんも、是非お参り下さい。
(写真は例大祭のスナップ)
※史実確認の資料を集めております。
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